NINAGAWA マクベス2015
昨日26日(土)は、久しぶりに蜷川作品の観劇に文化村のシアターコクーンへ、
NINAGAWA マクベスは、1980年の初演後、数回にわたって国内外で上演されており、今回は1998年以来約17年ぶりの再演。
ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』をもとに、台詞や人物設定を変えず、時代を日本の安土桃山時代に移して上演される同作。いずれ王になるという予言を3人の魔女から告げられたマクベスが、妻とともに主君のダンカン王を暗殺して王位につくも、罪悪感や幻影に苛まれて暴政を行い、やがて予言に惑わされて堕ちていく様を描く。
主人公のマクベスを演じるのは市村正親。マクベスとともに罪を犯すマクベス夫人役を演じるのは田中裕子。
(Bunkamuraホームページより引用)
最後まで分からなかったのは、舞台の袖で食事をしている二人の老婆の存在です。世の中の動乱と市井の一市民の関係を暗示しているようで興味深く観劇しました。
2015/9/27 21:00追記)
気になって調べてみると、北大の加藤さんという方の論文に、次のような見解がありました。
気になって調べてみると、北大の加藤さんという方の論文に、次のような見解がありました。
”蜷川自身の言葉によれば,二人の老婆は「自己嫌悪の象徴」であり,その 存在によって「普通の生活者を置き去りにして」いた当時の自分を「自己処罰したかった」のだと述べている。ここには自己史にこだわる一方で,逆にそれを強く拒否ないし相対 化する視点がある。蜷川は,『マクベス』によって自己史を語りながら,同時にそれを相対 化させる視点を観客にもたせることを忘れなかったのである。二人の老婆が仏壇を開閉させることによって,過去の物語と現在の物語が行き来する。すなわち空間のしきりを変化させ ることによって,過去と現在とが越境し,舞台に流れる時間が変化する。仏壇は二人の老婆 に操作されることによって,過去の物語を自在に現在に引き出してくる装置,すなわち過去 と現在との境界を越境させる装置として働くのである。『NINAGAWA マクベス』には,この物語に対する同化と異化の視点が同時に存在し,その両義性を保つ装置として,「仏壇」 と二人の老婆は機能するのである。”